
クンドル工場で発酵槽の点検をするサンドの従業員(ロイター)
[ロイター]アルプス山脈の青々とした麓にひっそりとたたずむ欧州最後のペニシリン工場が、台頭する中国の医薬品産業の影で不確実な未来に直面している。
この工場は、オーストリア西部のクンドルにあるサンド(スイス)の工場。主に抗菌薬とその原薬などを生産している。しかし、中国が同様のものを欧州市場向けに極めて低コストで大量生産しており、そのあおりを受けている。
価格の低下は、コストを重視する欧州各国の公的医療プログラムにとって朗報だ。一方、欧州で唯一、ペニシリンを完全一貫生産するクンドル工場にとっては、その存続を揺るがす重大な脅威となっている。
同業他社が次々と工場の閉鎖や中国への生産拠点の移転を決めるなか、このクンドル工場は、西側諸国の抗菌薬の自給自足をめぐる議論の大きな焦点となっている。
サンドは2023年から24年にかけ、公的資金5000万ユーロを含む2億ユーロ(約355億円)を投じてクンドル工場の生産設備を拡張した。それからわずか数年、同社は欧州委員会に対し、中国への関税措置につながる可能性がある「反ダンピング調査」の開始を要請した。
中国産、シェア8割超
「もしこの工場が閉鎖されれば、欧州は完全に中国に依存することになる」。チロル山脈に囲まれた工場を見下ろすオフィスで取材に応じたクンドル拠点の責任者、ステファニー・イェドナー氏は危機感をあらわにする。
100年前にアレクサンダー・フレミングが発見したペニシリンは、いまも生命を脅かす感染症に対する主要な対抗手段であり続けている。欧州では年間15億日分のペニシリンが使われているが、その原薬は中国が圧倒的なシェアを占めている。
欧州統計局のデータによると、主にAPIとしてEUが輸入するペニシリンとその誘導体に占める中国のシェアは、19年の44%から25年に86%へと倍増した。これは、中国が製造業の高度化を目指す10カ年の産業政策「中国製造2025」を推し進めた時期と重なる。一方、欧州からのペニシリンの輸出は、ピークだった2000年代初頭の5分の1まで減っている。
これは、中国が繊維や組み立てといった分野から高度な製造業へと進出した1つの例だ。25年のEUの対中貿易赤字は「1日あたり10億ユーロ」まで膨らみ、20年の2倍に達した。政策立案者は企業と雇用を保護するための新たな対策の策定に追われている。
サンドは今年、英国議会に提出した書面証言で、政府がペニシリンに高い価格を支払わない限り、クンドル工場が欧州への供給を続けることは「商業的に持続不可能だ」と指摘。さらに、中国によるペニシリンサプライチェーンの掌握は、重要鉱物における中国の市場支配と同様の「本質的な戦略的リスク」を生じさせていると警告した。サンドは「抗菌薬の供給は、特に外交的な緊張が高まる局面で経済的威圧の手段になり得る」とし、議員らに支援を求めている。
貿易戦争のカードに
中国は長年かけて必須医薬品の供給国としての地位を確立し、現在では先端医薬品の分野でも存在感を増している。サンドによると、世界の抗菌薬原薬の最大90%が欧州外(中国や、中国製化学物質を使ったインド)で製造されている。
EUの外交政策シンクタンク欧州連合安全保障研究所の中国分析官ティム・ルーリヒ氏は「これは懸念すべき事態だ」と指摘する。中国の市場配力が、自国の戦略的利益を守るためのレバレッジになるからだ。
もっとも、それを行使すれば中国自身も名誉を損なうリスクがある。レアアースと異なり、中国は政策上、抗菌薬市場での支配力を国家安全保障の文脈で明確に位置付けているわけではない。
しかし、新型コロナウイルス感染症のパンデミックのさなかには、中国人民銀行貨幣政策委員会元委員で経済学者の李稲葵氏が、貿易紛争のカードとしてAPI供給を交渉のテーブルに乗せるべきだと示唆し、西側諸国を不安にさせた。
在中国の米国政府高官は、「中国側の担当者が会談の席で、貿易紛争の報復措置として一部医薬品の原薬輸出を停止する可能性を示唆したことがある」と明かす。
一方、中国外務省は、EUとの経済・貿易上の相違は対話と協議を通じて解決できるとし、ロイターの質問に「中国はあらゆる形態の貿易保護主義に一貫して反対する」と答えた。米国務省はただちにコメントしなかった。
スロベニアのCDMOラベナの事業開発責任者ボシュティアン・ツェフ氏は、こうした戦略的産業の衰退により、欧州はパンデミックや紛争時の供給制限を受けやすくなると指摘。「欧州が健康危機に対処する能力を著しく損なうことになるだろう」と話す。
プロヴディフ医科大の政策専門家アンナ・ミハイロヴァ氏によると、欧州はパンデミックを経験して初めて、医療物資をアジアに依存していることを認識し、そこから政策立案者たちは医薬品の生産を戦略的な問題として扱うようになったという。
2022年、パンデミック後に呼吸器感染症が急増した際には、クンドル工場で製造されているペニシリン系抗菌薬アモキシシリンの供給が欧州全域で不足した。その翌年、欧州委員会はクンドル工場の生産能力を20%引き上げるための拡張工事に対して2830万ユーロの補助を承認した。
立場逆転
フレミングによるペニシリンの発見はノーベル賞に選ばれ、その後長年にわたり、中国はペニシリンをはじめとするジェネリック医薬品の生産を欧州に強く依存してきた。
しかし、中国政府の産業投資によってその立場は逆転した。欧州連合安全保障研究所のルーリヒ氏によると、緩い環境規制、劇的に低い人件費、政府の補助金、コスト削減を追求する西側製薬企業の投資により中国は優位性を獲得した。
2000人以上を雇用するクンドル工場では、金属製タンクで栄養素を発酵させてペニシリンを製造している。このプロセスは極めてエネルギー消費が大きく、欧州の製造事業者が競合力を失う要因の1つとなっている。国際エネルギー機関(IEA)の統計によると、25年のエネルギー集約型産業向けのEUの平均電力価格は、中国を50%近く上回っている。
エネルギーコストの高騰はクンドル工場を直撃している。サンドは同工場が建つ敷地を元親会社ノバルティスや化学メーカーBASFと共有しているが、工場長のイェドナー氏によると、その敷地で消費するエネルギーは人口13万人の隣町インスブルックとほぼ同じだという。エネルギー価格は上昇が続くが、欧州のペニシリン価格は横ばいか下落傾向にある。
「菓子より安いのは腹立たしい」
サンドは、多様な供給ルートの維持ではなく、最も低い価格に基づく調達を目指す欧州各国の政策により、クンドル工場は脆弱な立場に置かれていると主張する。
同社は、中国が市場に安価なAPIを氾濫させていると訴えている。3月には、中国による抗菌薬市場の支配について欧州委員会に苦情を申し立てた。この訴えは、中国産のアモキシシリン原薬が政府の補助金によって支えられ、生産コストを下回る価格で欧州に供給されていることを証明することが焦点となる。
欧州の貿易専門家、当局者、中国研究者によると、欧州委員会は近く反ダンピング調査を始める見込みだが、案件が滞留しているため開始時期は不透明だという。欧州は全体として中国に対する姿勢を強めており、関係者は欧州が中国に追加関税を課す可能性が高いとみている。EUが進めている23件の反ダンピング・反補助金調査のうち、20件が中国を対象としている。
考えられる展開はほかにもある。欧州委員会は最近、欧州の自動車メーカーを救済するため、ハイブリッド車に対する関税引き上げではなく輸出量の削減で中国政府と合意したと発表した。
中国政府は公式声明で、自国の補助金支援はWTO(世界貿易機関)のルールに沿ったものだと主張。他国の保護主義的な政策が世界のサプライチェーンを損なっていると非難している。
サンドのリチャード・セイナーCEO(最高経営責任者)は、命を救う医薬品の供給を持続可能にするには、「菓子より強い価格決定権」が必要だと指摘。「のど飴やチョコレートバーより安い価格で抗菌薬を販売せざるを得ない状況に、私は腹立たしく思っている。私たちは医薬品を当たり前のように享受しているが、なくなって初めてその価値に気付くのだ」と話している。
(取材:Marleen Kaesebier/Philip Blenkinsop/Dave Graham/Andrew Silver/Laurie Chen/Bhanvi Satija/Andreas Rinke/Christine Uyanik、編集:Frank Jack Daniel/Adam Jourdan/Dave Graham、翻訳:AnswersNews)







